ティーダさんとお出かけ

愛車・ティーダさんとのお出かけその他もろもろ…

10月9日。
会社の先輩であるしげっちょ氏が亡くなりました。




私が7年前に香川で今の会社の子会社に入社した時、しげっちょ氏がそこに出向で来てたんですね。
そこで2年間働いて私が今の会社に変わるのと同時に愛媛に配属になり、しげっちょ氏も一緒に異動しました。
私が社会人として働きだしてから、ずーっと一緒にいた先輩でした。
高松にいたころ。
結構甘い物好きなので、毎週のようにケーキを買ってました。
冬になると紅茶花伝のロイヤルミルクティーを毎日購入。
原チャで通勤中、事故にあって愛用のダウンがズタボロになったこともあった。
そういや、スカンクも飼ってた。
当時から自分のホームページ持ってて、チャットしたりとかもしてた。
札幌のホワイトイルミネーションが好きで、見に行ったことがあると言ってた。
北海道の寒さは「寒い」じゃなくて「痛い」のだとも。
お父さんが亡くなったのもこの頃だった。
私がどーしても仕事が進まなくて、しげっちょ氏に泣きついたこともあった。
そのおかげで仕事に対して吹っ切れたりもした。
高速インターチェンジのチケットを取るのが上手だった。
ブレーキがガクッとならずにスムーズにピッタリと停めて、私もこんな停め方したいなぁと思ったものだった。
松山に移って。
お菓子好きは変わらず。アーモンドチョコとか常備。
でも、保険のおばちゃんがくれるアメは「いつ作られたやつかわからん」といって絶対に食べず、私や他の人にくれていました。
「これあげるから、それくれ」とお菓子のトレードしたことも数知れず。
仕事で「こうしたいんですけど、何かいい方法ないっすか?」と私が一番に聞く相手はしげっちょ氏だったし。
飲み会では大抵近くの席になって、私としげっちょ氏が近いと食べ物の減りが早いとか言われたりもしたな。
しげっちょ氏はたくさん食べる人で、家で晩ご飯食べた後にポテチのビッグパック食べてから寝てると言っていた時期もあった。
それなのにお昼のお弁当は、ご飯と、おかずに家庭菜園のプチトマトがこんもり。付け足したように卵焼き1,2切れぐらいのときがあって、「うわ、かわいそう」と思ったことも実は何度かある。
キビシイ小遣い制だったらしく、小遣いの中から自分の携帯代とか出さないといけないとか、家族にご飯食べに行こうと誘っても、しげっちょ氏の小遣い払いになるとか言ってました。
その金額も教えてくれちゃったので、私が結婚してダンナは小遣い制度にしたとしても、ここまで厳しくはすまい、と思ったりもした。
それでも、しげっちょ氏はご飯食べに行ったり、ケーキ買ったりしてたんだよなぁ。
家族想いの人だったんだよ。
うどんが好きで、松山に行ってからも自分でうどんツアーを企画して、数人でうどん屋も巡ってました。
最後は一鶴というのがお決まりのコース。
ゲームも好きだった。
スーパーロボット大戦はずっとやってるって言ってた。
FAINAL FANTASYもドラクエもプレイして、FAINAL FANTASYの中では10が一番好きだと。
テニスも好きで、自分でサークル作ってた。
サークル名思いついて、「これすごく良くない?」と私に嬉しそうに言ってきたこともある。
初めて練習に参加する子には連絡取ってその子が困らないように気を配ってたし、メンバーの相談にだって乗ってた。
その陰で運営について悩んでたのも知ってる。
ちょうど一年ぐらい前に、テニスの大会に参加するのだといって部活動並みに練習してた。
朝練やって仕事が終わってからも練習して。
メタボ予備軍だったお腹が見事に引き締まって、ズボンがユルユルになってた。
誕生日にラケットとリュックをプレゼントされてすごく喜んでた。
私としげっちょ氏が関わってる仕事でちーっとも話が前に向いて進まないやつがあって、見るに見かねた課長がしげっちょ氏に、お前が引っ張っていってくれてもいいぞぐらいの勢いでサポートに回ってくれと言い出した頃でもあった。
その下にいた私は「これで一安心」とホッとしたものだ。
が、年明けに40度ぐらいの熱が続いた上、前から痛いと言っていた腰も痛みが増してきたため、検査のために入院。
しばらくは原因すらわからなかった。
1,2ヶ月後にようやく病名がわかったとき、重い病気にも関わらず「病名がわかったから、これで前に向いて進める」と、SNSで病名含めて闘病記を公開し始めた。
2月に私の異動が決まったとき、「入院が長引きそうだからもう一緒には仕事できんな~」と言われた。
直後に着任延期が決まって、「早く退院したら一緒にできまっせ!」とハッパかけてみた。
実際最後にするつもりはなかったし。
4月末に一度退院し通院になった。
その時、モスバーガーをおごってもらう約束だったので、休日に会いに行った。
本当はモスチキン込みで、という約束だったけど「また今度」とついつい遠慮してしまって、今更ながらやっぱり頼んでおけばよかったと思う。
息子も一緒に連れてきていた。
高松時代に初めて会ったときはまだ4歳とか5歳とかそのくらいだったと思う。
それが今では小学生。
私だって三十路になったんだから、そりゃ大きくなるわなぁ。
私から見てもおとなしい子なので、父親であるしげっちょ氏は学校でいじめられてないかと心配してた。
私はおいしくモスをいただいたけど、しげっちょ氏はあんまり調子がよくなくて、バーガーではなく、ええと名前なんだっけ、フレークにアイスとラズベリーソース?がかかったのだけ食べてた。
それぐらいしか食べられないのだと。
腰もやっぱり痛い、としんどそうだった。
ものをよく落とし、薬の影響で指先がしびれて感覚がないのだと笑っていた。
やっぱり病院の方が調子悪くなってもすぐに対応してくれるということで、その2日後ぐらいに再入院。
6月24日だったかな?にはKuro氏とお見舞いに行った。
病院着く前に、「何かいりますか?」とメールしたら「コーラとひぎりやき」という返事が返ってきた。
病人とコーラってなんか結びつかないんですけど。
ついでにハーゲンダッツのドルチェも買っていって、一緒に食べた。
芋のお菓子にはまってると言っていたと思う。
6月27日が私の送別会で、できればちょっとだけでも顔出して欲しかったけど、無理だった。
6月28日に引っ越し。
荷物を運び出した後、高松に帰る前に立ち寄った。
高松に着いた頃、メールが届いた。
「今日は最後に寄ってくれてありがとう。前の部署ではよく頑張ったね。新しい部署でも大丈夫だから頑張れ」的な内容のメールだったんだけど、どうしても「今までありがとう」的な内容に思えてしまって、それがすごく悲しくて、一人でボロ泣きした。
「またおいしいもの食べに行きましょう」ぐらいしか返せなかった。
次に会うときはお葬式という形にだけは絶対にしたくなかったから、なるべく会いに行こうと決めていた。
引っ越して約一ヶ月後の7月21日だったか22日だったか、高松の友達と遊ぶよりも前にお見舞いに行った。
しげっちょ氏と私とKuro氏と三人で、鰻を食べに行った。
6月に会ったときとあまり変わらず元気そうで、ずっとこんな感じなのかもしれないと漠然と考えていた。
鰻食べた後、スタバに行って大半はくだらない話をしてたけど、
「自分のお墓は…と、家族と話するんや~」とか言い出した時は反応に困った。
自分の病名も病状も隠さずに話す人ではあったけど、そこまで言うか~?
私らが決して触れるまいとしてることを明るく話題にしてくれるのはいいんだけど、下手に回答できないし。
「やっぱり墓石は庵治石でしょ!」とか冗談で返したとしても、笑えない。絶対笑えない。
他にも、奥さんがログハウス好きなので建ててあげたいけど、死んで保険が下りてからじゃないとお金が…とか。
でも、建てるのなら一度でいいから住んでみたいとか。
こういう話題でも、うまく返せる人になってみたい。
いつもはしていなかった指輪をしていたのでどうしたのかと聞いたら、今年は結婚10周年だからと言っていた。
結婚した直後は仕事の関係ではずしていたけど、今ではその必要もなくなっていい機会だからと。
奥さんとハワイで挙式したのは知ってたけど、その日に結婚指輪をなくしたのだというのは、その時初めて聞いた。
後で見つかったと言っていたけど。
空を見るのも好きで、結婚記念日にはSNSの写真を二人の式の写真に変えるぐらい、見た目に反してロマンチストだったのだ。
8月は友達の結婚式があったり、講習行ったり、よさこい見に行ったりバタバタしてたので、お見舞いに行けなかった。
7月に行ったときみたいにしげっちょ氏が外出できたらいいな、と前の部署の人たちと9月1日に飲み会企画してみたけど、残念ながら治療の関係で外出するのは無理な状態だった。
その日は松山泊まりだったので、翌9月2日の朝にメールして寄ってもいいかと確認したらOKとのこと。
ただ、ちょうどその時私が風邪を引いていたので、やっぱり行かない方がいいのかと再度メールしたら、返事が来なかった。
お昼まで時間つぶして、お見舞いも買って、病院の入り口まで行っても連絡がないので、電話したけど電話にも出ない。
とりあえず行ってみようとエレベーターに乗る。
看護婦さんに尋ねると、午後から熱が出たらしく面会できる状態じゃないと言われ、お見舞いだけ渡して帰ってきた。
高松に着いて晩ご飯を食べているときに、しげっちょ氏から電話がかかってきて、「今日はごめん」と謝られた。
今は熱も下がって起きあがれるのだと。
会えなかったのは残念だったけど、また会いに行きますからと言って電話を切った。
9月末で今の治療が終わったら退院できるから、食べに行きたいところをメモしておくのだ、とグルメブログも立ち上げていた。
さすがしげっちょ氏。と言いたくなるほど、おいしそうな店ばかりアップしてて、さて、どこに連れて行ってもらおうかとワクワクしてた。
順調に退院もできそうで体調も良くて、トロのおいしい店があるから来るかい?とお誘いがあったので、「行く!行きま~す!!」と返事を返した。
退院するまでマメに更新していたSNSの日記も、退院後はパッタリ止まって、お誘いしてくれたけどそれから連絡ないし、家族で旅行にでも行ってるのかなぁと思った矢先の10月5日。
久々に見た日記のタイトルが「さよならを」。
アップされたのは10月4日の午前2時。
退院後、肺炎にかかって緊急入院したと書いてあった。
調子はすごく悪くて、下手をすればこれが最後の日記になる、と。
冗談じゃない。
だって、退院直後の週末にうどんツアーまで計画してたのに、よ?
すぐKuro氏に、翌10月6日が幸いにも土曜日だったので、とりあえず行きます!と連絡した。
Kuro氏も3連休で実家に帰る予定だったのを止めて一緒に行くと言ってくれた。
病院に行ったけど今までいた階にはいなかった。
いたのは集中治療室。
今までもすぐ近くにはいたんけど、背中合わせで見えなかったものがとうとう正面に立った。
そんな感じ。
面会は時間が決まっていて、基本的に家族のみ。それも三人まで。
家族控え室にはお祖母さんが一人で待機していた。
「本当にね…急に…」と絞り出すような声だった。
息子も先立ったのに、今また孫まで先に行くかもしれない状態。
どんなにかいたたまれないだろう。
しげっちょ氏がお墓やログハウスの話をしたとき以上にかける言葉が見つからなかった。
「しげっちょ氏なら大丈夫ですよ」なんて、言うのは簡単だけど
その言葉にどれほど信憑性があるというのだろう。
可能性は限りなく低いと誰もが思っていたとしても、そう言ってあげるべきだったのだろうか。
本当にたくさんの人がお見舞いに来てくれたと言っていた。
しげっちょ氏が自ら人と関わりに行く人であること、人と人が接する機会を作る人であることを初めて知ったようだった。
集中治療室に入ったのは10月4日の午前6時頃と言っていた。
あの日記をアップしたほんの4時間後だ。
例え強制だったとしても、もう戻れないかもしれないと知っててそこへ行くにはどんな気持ちなのだろう。
病院を出た後、お昼を食べた。
Kuro氏と別れた後は、温泉に入って帰った。
しげっちょ氏が一人で闘っている時に、いい思いをしてることに後ろめたさも感じながら。
帰って2日間は携帯が鳴るたびにドキドキした。
会社が休みの間、その連絡は携帯に入って来るに違いないから。
10月9日。午後4時頃。
前の部署の課長から連絡があった。
わかっていたけど、嫌なものだ。
それから仕事になんてなるはずもない。
トイレに行って、しげっちょ氏はもういないのだ、なんて考えると勝手に涙が出てきた。
9月2日の電話が最後の会話。
会って話したのは7月が最後。
一番避けたかった「次に会うときはお葬式」にはならなかったけど、もっと会いに行くこともできたんじゃないかと思う。
帰ってSNSの日記を読み直してみた。
日々読んでいるときは気づかなかったけど、1月から続いていたものだから、相当な数だった。
内容は様々で、その日にする検査の内容、点滴するのに看護婦が下手で血がダラダラ出たこと、大部屋だったからうるさい人がいたこと、本当にいろいろ書いていた。
おかげでしげっちょ氏がどういう状態にあるのか知ることができたけど、本来なら書いてくれるのを待つんじゃなくて、こっちから連絡して話を聞くべきなんだよね。
退院したらしたいことだっていっぱい書いてた。
家族でディズニーや沖縄に旅行したいとか、うどんツアーだってしたいし、もちろんテニスだってしたいと。
書いていた希望のうち、果たしてどれだけ叶えることができたのだろうか。
本当に長い闘いだったんだなぁ。
日記読み直してるとまた涙が出てきた。
その日もボロ泣きだった。
自分の体なのに、と思うことだってあっただろう。
死について考える時間も嫌というほどあったはず。
それでも私達と会う時はそんな気持ちを見せもせず、笑っていられた彼を本当にすごいと思う。
10月10日。お通夜。
高松からしげっちょ氏の同期二人、前に同じ部署にいた人と一緒に行った。
遺影は見事な笑顔で、いい写真選んだなぁと思った。
けど、その笑ってる人がすぐ下で横たわっているのだと思うとガックリくる。
読経の間も気分は浮いたり沈んだりだった。
顔見せの時に前の部署で親しくしてくれた人と目が合った時が一番ダメだった。
気が緩んだというのがピッタリくる表現かな。
それまで一番泣くのは出棺前にみんなでお花入れるときだと思ってたけど。
しげっちょ氏の顔は穏やかだった。
棺の上にラケットが置かれていて、中には「ルマンド」がたくさん置いてあった。
ああ、そういえばルマンド好きだったよなぁと懐かしく思った。
10月6日に会ったお祖母さんは私のことを覚えてくれていた。
10月11日。お葬式。
行きたかったし、前の部署の人に行きます、と言っていたけどちょっと困ってた。
月イチの仕事でその日に渡さないといけない書類があったのだ。
他の人に頼むこともできたけど、講習会があったときにもやってもらったので、できるときにはしたかった。
書類取りに来るのが11時で、それから移動すると葬儀に間に合わない。
母親はお通夜に出たんだから仕事優先でいいんじゃないかと言ってたけど、しげっちょ氏の葬儀は最初で最後。
その仕事は来月以降もまた続くし。
なので、書類だけ作って渡すのだけお願いした。
8時過ぎに会社に着いて、9時まで仕事して帰ってきた。
それから松山へ。
葬儀は12時30分開始。
席に座って待っていると、10分前から「しげっちょ氏は○年○月○日誕生。○○に入社され…」というアナウンスが流れ出した。
まるで知人のようなその語りっぷりに「どれだけしげっちょ氏のこと知ってんねん」と思ったり。
焼香も終わって、読経も終わって、ビデオで故人を偲びましょうってことになった。
うちは祖父母とも家での通夜&葬式だったから当然そんなものはなくて。
おぉ、最近の会館でのお葬式はそんなことまでするんだな~と感心したけど、内容で凹んだ。
ビデオっていってもしげっちょ氏が動いている映像が出るわけでもなく、何枚かの写真の間に風景写真が挟まれているようなものだった。
「あなたの歩いてきた道は…」ってナレーションの時に道の写真とか写さないで欲しいわけよ。
式開始前のアナウンスとは違って、録音された、誰に対しても同じ内容なんていうのは嬉しくない。
生きてる元気なときの写真を見られるのはいいのよ。
どうせならそればっかりにして欲しいわけよ。
なんていうか、こう、悲しみをあおるあざとい演出に思えるのは私がひねくれているせいですかね。
後で話したらKuro氏も同意見だったから、ま、いいや。
だけど、写真のしげっちょ氏は笑ってた。いい笑顔だった。
大好きなテニスをしてる時の写真もあった。
サーブかスマッシュを打つ瞬間にジャンプしているものもあって、それは私も見たことがあった。
「このジャンプ無茶苦茶高く飛んでない?」と気に入っていたやつだ。
出棺前にしげっちょ氏を花で飾る。
それまで普通にしてたしげっちょ氏の息子がここでボロボロ泣いているのを見て、とてもやりきれなかった。
私と一緒に高松に異動になった部長。
以前、行くとつらくなるからお見舞いに行けないと言っていた。
花を供えたあと、みんなが会場から出て行く中で元の席に戻ってうつむいていた姿が印象的だった。
私はといえば、一番の泣き所だと思ってたのに、事前に覚悟決めすぎたせいかあまり泣けなかった。
息子が泣いているのを見て、他人の私が泣いちゃいけないと思ったのかも。
なんていうかね、やりきれないよね。
じーさんとかばーさんが死ぬときは、そりゃあもちろん悲しいけど、まあ、こんだけ生きたんだから十分じゃない?っていう気持ちも少なからずある。
けど、年齢が近い知人というのはそうはいかない。
もっと一緒においしいもの食べたり、バカな話して笑ったりしたかった。
それができないのがとても悲しい。
「ちゃんとお別れできた?」と同僚に聞かれた。
お別れかぁ。
そんなつもりはなかったなぁ。
死んだ後もその辺にいると思ってたし。
まあ、うん。ひとまずお別れ、だよね。
SNSで書いた日記を転記したブログも作っていて、そこに「死ぬことよりも忘れられることの方が怖い」と書いていた。
忘れることなんてないと思うけど、例え忘れてしまってもまた思い出せるように今の気持ちを残しておこうと思った。
そのうちグルメブログに書かれたお店も巡ってみたいと思う。
では、また何十年か後、私が死んだときに。
もしかしたらしげっちょ氏みたいに思ったよりも早かったりするかもしれんけど。

2 コメント:

今治に住んでいる従妹の旦那さんも
��年前に病気で亡くなりました
若い方が亡くなるのはどうにもやるせない
私も父の逝った年齢よりもいつの間にかふたつも
歳をとりました。
今はただ祈るのみですね

tanny さんのコメント... 土曜日, 1月 14, 2012  

��もぐらさん
私もあと数年でしげっちょ氏より年上になります。
亡くなる可能性もあるとか、病気だから仕方ないとか、わかってはいるんですけど寂しいですよね。
私もしげっちょ氏に負けないよう、精一杯生きて行きたいと思います。

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